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2009年07月11日

自己紹介


このサイトの管理人である、ターザンのプロフィールです。
まずは、コーチ的プロフィール。
そして、後半は現在のターザンができるまでを時系列で書いてみました。
ご興味がある方だけどうぞ!(ちょっと長いですよ)
ここには、様々な物事に対してのその時々の、私の考え方を書いています。
共感できる人、僕と是非絡んでやってください!(笑)

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Coach ,CFP

ターザン

Coaching GARAGE 代表
未来へ夢をつなげよう 代表

岸英光コーチング連続講座A,Bカリキュラム完了
神戸市市民講師
NHK神戸コーチング講座サポート講師
明石コーチングコミュニティ源メンバー
日本ファイナンシャルプランナー協会会員
アライブバンド ヴォーカリスト

2004年よりコミュニティ運営を通じて経験した事例を中心にコミュニケーションの無料メールマガジンを創刊。このメルマガは創刊時より話題となり創刊2週間でまぐまぐスタッフのおすすめメルマガに選出される。
その後、リーダーシップを5日間で学べるメール講座を配信。こちらは、半年限定募集ながら400名の受講生を集める。

同じ頃、コーチングに出会いこれまで自分がやっていたことや、またこれからやりたいこと、自分が望んでいるものこそが“コーチング”だと知り衝撃を受ける。すぐに、日本のとコーチングの第一人者である岸英光氏を師事し直接本人から本格的に学び始めると同時に自らコーチとしての活動を開始する。
売上減に苦しんでいたある経営者の方が、1年で当時の2倍の売上という長期目標でセッションをはじめたが、セッション開始
2ヶ月で3倍、3ヶ月で5倍の売り上げをあげ、驚異的なコーチングの可能性を感じたことがきっかけで本格的にコーチとしての活動を開始する。
その後は、売上げUPから恋愛・子育てまでテーマ、対象を問わない広範囲でのコーチングを行っている。
人が本来持っている力を発揮できることで目標を達成するという『環境が人を育てる』をモットーにコーチとしての活動を続けながら地元でコーチングコミュニティを設立し、文字通り地域とのコミュニケーションを行う活動も精力的に行っている。
また、プロジェクトR21のセミナーコンテストで優勝したことがきっかけでセミナー講師としての活動も2009年より開始する。神戸市、各種団体、そして自主開催と形にとらわれないセミナー講師として活動を行い、セミナーテーマも、コーチング・リーダーシップだけではなく、自ら26年越しの夢を実現させたことで作り上げた、他にないターザン流夢を叶える方法を体系化したセミナー活動も本格的にスタートさせた。


 


◆師匠
・岸英光氏

私にコーチングという世界を見せてくれた人。師匠です。

◆メンター
・福島正伸氏
私がコーチである前に、人として生きる方向・目指す方向に心から共感できるメンター。
近道や効率化という現代において彼の存在自体が私にとって癒しであり貴重な存在です。

◆音楽
・アースシェイカー
誰がなんと言おうが、いまの私の音楽観があるのは、17歳の彼らとの出会いに集約される。それ以来、音楽はもちろん、音楽やファンに対する考え方まで全てが尊敬できる愛すべきミュージシャン

◆映画
・フィールド・オブ・ドリームズ
23歳で父を亡くした私にとって、野球というスポーツで父に再会する主人公に自分が重なり涙無くしては見ることが出来ない。アイオワの空と空気がこれまたすばらしい!

・ALWAYS~3丁目の夕日
40年代生まれの私ではあるが、どこか懐かしく、人間味溢れる世界感にとても惹かれる。やはり、小さい頃に愛情をかけてもらった両親への想いがだぶるすばらしい映画。

◆マンガ
・硬派銀次郎
もっとも尊敬する漫画家、本宮ひろ志氏の作品。小学生の頃、子供会のバザーで古本屋の店番をしていたときに時間つぶしに読んだことがきっかけで出会う。すぐに、そこにあった売り物の本を全巻購入しそれ以来、現在も年に1度は読破している。男の生き方を学んだ貴重な作品。

・男一匹ガキ大将
本宮ひろ志氏の初期の代表作。硬派銀次郎からさかのぼりこれまた古本屋で全巻揃える。チームリーダーとして生きる主人公戸川万吉の生き様に今でも読むだけで背筋が伸びる想いだ。

・遥かなる甲子園
障害を持って生まれた子供たちが甲子園を目指す物語。野球をずっと当たり前のようにやってきた自分にとって彼らの純粋な想いと、その立場から現れる壁に立ち向かう姿に本当に嗚咽するほど涙が止まらないすばらしい作品。


ここからは、生まれてから現在までのエピソードです。興味のある人&お時間のある人はどうぞ!

 

幼少~小学校時代

◆1966年6月11日神戸で生まれる 二人兄弟の長男
サラリーマンの父と専業主婦の母の第一子として誕生。
4人兄弟の末っ子だった父は、父の兄たちでもなしえなかった第一子長男誕生に本当に大喜びだったそう。
(ちなみに従兄弟9人のうち男性は私を含めて2人だけ)
また、幼い頃は、とにかく虫が好きで、図鑑の中でも虫の巻だけが異常にボロボロだったそう。
どこへ行くにも毎日、持って歩いてたらしい。

◆両親の愛を感じたクリスマス
我が家は、クリスマスの日は必ず夜に父を迎えに外に行ってました。
母と妹の3人で迎えに行き、道中で父に会って一緒に家に帰ります。そして、帰宅して、一家でくつろいでいるときに 『あれ?いまトイレの方で何か音がしなかった?ちょっと見てきてくれる?』と母、そして私が見に行くとそこにはサンタさんからのクリスマスプレゼントが!
実はこの仕組み、前もって父から母に電話があり、その電話で私と妹を連れて母が外に出ます。その間に父が家にこっそり戻ってプレゼントを所定の位置に置いて、再び外に出て迎えに来ていた私たちと出会うという演出。
当然、私たちは出会ったそのときに父が会社から帰ってきたと思っているので、まさか前もって父がプレゼントを家に置いていてたなんて知らないわけです。
この話を大人になって知ったときには、子供たちに夢を与えようと二人で全力で考えて実行してくれた両親の愛情を感じとても感謝の気持ちがわきました。
母もプレゼントを持った父と私たちが絶対にはちあわせにならないように、わざわざ遠回りして父を迎えに行ってたそうです。(笑)

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◆小学2年生 人生を変えた『転校』
新設の小学校に小学2年生のときに転校する。卒業後20年ほどたって開催した同窓会で先生に聞いたのですが、当時は、まだ学校としての全体の教育方針がはっきりとは決まっておらず、学校として学年ごとにいろんな教育方針を試していたそうです。で、私たちの学年はなんと『遊ばせる学年』(笑)
水泳の授業が盛り上がったらそのまま次の授業も水泳を継続してやったり。雪が積もると朝から晩まで雪合戦。毎日の宿題はもちろん、夏休みの宿題もゼロ!だから、夏休みは友達と毎日近くの海まで海水浴に行ってました。で、帰りには近所の宿泊施設 ○子ビラに宿泊客の子供のふりをしてちゃっかりと毎回お風呂に入って帰ってきてました。
このように自由な毎日のもと好きなことを好きなだけできる環境で、遊びと野球に明け暮れる日々を過ごしていました。当然ですが、学校だけでなく家に帰ってからも友達とずっと遊んでいるので思い出が多すぎるくらいなのです。
現在も、5年に一度開催している小学校の同窓会(私が幹事です)には、全国から元クラスメイトが集まり、卒業時の担任の先生だけでなく歴代の担任の先生も全て呼ぶという大きなイベントとなっています。

◆子供の頃の私 ひょうきん者で人気者
人を笑わせるのが好きで、面白い人というイメージだったよう。
お楽しみ会などで『好きなもの同志で集まる』時には、席を移動するのではなく、みんなが集まってくるような存在だった。卒業時のサイン帳も一日に3~4つお願いされ眠い目をこすりながら一生懸命書いていた。

◆小学3年生の時、新聞係を考案
クラスの係としとて新聞係を考案。これはいわゆる壁新聞を作る係。それまで飼育係や黒板消しの掃除係など学校生活で必要な仕事をするのが係という暗黙の了解だった教室に衝撃を与える。新聞係になると同時に『アカンベー新聞』を創刊。(マークも確かあったはず) 結局この新聞は50号くらい続き、その後の新聞係ブームを巻き起こす。一時はクラスの半分以上が新聞係となって壁新聞を発行しているような状態だった。主な活動としては模造紙に4コマ漫画やら面白おかしい記事を書いて、翌日誰よりも早く登校して教室に貼り出していた。

◆ピンクレディーのファン
小学3年生の時、ピンクレディーのファンとなり、歌と踊りを完璧に覚えた。ボーイスカウト(カブスカウト)のクリスマス会では友達とペアで歌マネを披露して、そのレベルの高さでみんなを驚かせた。ちなみにミーのパートしかできずケイ役はO君だった。また父が石鹸メーカーに勤めていたおかげで、ピンクレディーがCMをつとめるシャンプーの景品である下敷きを全種類もらい、ちょっとうれしい気分だった。

◆少年野球に熱中する
父の影響もあって野球を始める。父もコーチとして大切な休みを練習に付き合ってくれた。夜は家の前で素振り、父が早く帰ったときにはキャッチボールをしてくれた。父に『おっ!けっこう球 速くなったな』と言われたくていつもキャッチボールでも常に全力投球をしていた。このころ父がよく言ってたのは『練習の時には自分が一番ヘタクソだと思え。そして試合のときは自分が一番ウマイと思え』だった。当時の私には深すぎて意味がまったくわからなかったが今となってはすごい教えをいただいてたんだと改めて思います。

◆スポーツ大好き
野球のほかには、手打ち野球、エンドボール、ポートボール、バレーボール(地域の小学校対抗戦に出た)、バドミントン(ダブルスでは学年で優勝!)、ドッジボールは受けるのは大丈夫だが投げるのが苦手だった。水泳は平泳ぎでなんかの大会に出た。放課後にはインサを毎日していた。
 

中学校・高校時代

◆野球そして野球
中学、高校と野球部。理由はスポーツで唯一好きを超えて、できたのが野球だったから。中一の野球部練習の初日、一年生は基礎練習ということでボールには触らせてもらえず(夏休みまでは基礎練習ばかり) 学校の外のランニングコースを走ったが、それまでの人生で最高の量の汗をかくほど走ったが、先輩に『まあ初日だから今日は女子のコースにしといたから』と言われ小学生と中学生の体力の違いに唖然とした。

◆校内暴力全盛期
時は、校内暴力全盛期。どこかの中学校から殴りこみに来るだの、先生が殴られただのというニュースが新聞をにぎわし、金八先生でも荒谷二中が荒れてて桜中学までその影響があったりと、社会的問題となっていた。
しかし、うちの中学校は、『遊ばせる学年』で育ってきた小学生たちが約半分いるために、全体的にのんびりとしていて、いわゆる不良という人が一人もおらず、当然番長と呼ばれる人もいなかった。だから、どこかの中学の不良グループが突然来て『この中学の番長出て来い!』と言われても、野球部のキャプテンが行って『今日は何の用ですか?』と、対応しているような中学だった。
しかし、そんな平和な中学に、あるとき転校生がやって来た。見るからにいかにも不良中学生。来て早々、『この中学の番長は誰や?俺はこう見えても前の中学では副番で特攻隊長やってたんだ!』と豪語されたが、その言葉の価値を全く理解できず、しかも番長がいないので対応もできなかった(笑) それどころか、それを聞いた私たちは、『丁度いいやん!うちの中学は、番長がおらんから今日からオマエが番長になってくれや!ぎゃははは~』というようなしまつ。そんな感じでバリバリの不良学生もつるむ仲間もケンカする相手もいない場所では不良としてやっていけず(不良グループ結成できないので(笑)) 気付いたらいつのまにか真面目な普通の生徒になってしまった。環境は人を変えてしまうんだと実感した貴重な経験だった。

◆人生の教訓
忘れられない体験が中3の冬に開催された駅伝大会。
当時、一生懸命することが照れくさかったのか、負けることが恥ずかしかったのかは不明だがクラスから代表となった6人の駅伝メンバーで『ゆっくりと力を抜いていこう』と約束してスタート。終わりから2人目の5区が私。
1区の選手は学年でも長距離がかなり速いM君だったが、打ちあわせ通りぶっちぎり最下位の6位で戻ってきた。そして2区の選手へ・・・ しかし、沿道で応援してくれるクラスメイトや頑張っている他のクラスの仲間を見ていると次第に『ゆっくりと力を抜いて・・』とは行かなくなってきた。また、段々とそんな自分自身が許されなくなってきて、あれだけぶっちぎりの最下位だった私たちのクラスが、あれよあれよと追い上げ、私のひとつ前ではとうとうトップとなってしまった。そして、そのままタスキを受けた私は必死で走った。絶対に追い抜かれるわけにはいかない。心臓が口から飛び出しそうになるほど必死で走りました。そして、なんとかトップのままアンカーへタスキを渡す。しかし、追い上げるクラスのアンカーは陸上部の長距離の選手。そして、最後の最後でとうとう私たちのクラスは追い抜かれて2位になってしまいました。
『最初から一生懸命やっていたら・・・』 あとで、悔やんでも時間は戻りません。負けるところを見られるのがカッコ悪い、一生懸命やっている姿を見られるのが恥ずかしい・・・ 今思えば、わざと力を抜くという決断をした自分たちが許せないのです。それが悔しかったのです。今でも忘れられない苦い思い出です。

◆商業高校へ、、、まるで女子高
中学を卒業し近所の商業高校へと進学したが、学年450名に対して女子生徒が370名!!まるで女子高。10クラスの中には当然女子だけのクラスもあるし、私のクラスは2/3が女子。どのクラスも、女子が強くて大奥のようで男子はホント立場がない。『このままじゃ、自分の青春は台無しだ!2年生になったら絶対に自分らしさを出して楽しくすごすぞ!』ということを強く心に誓い、2年、3年生は青春を取り戻すべく超楽しく過ごす。

◆高校でもいろいろ挑戦
学園祭では、顔を黒く塗ってラッツ&スター、教室を使ってのクイズコーナでは司会者。体育祭では、一世風靡セピアで、ダンスに爆竹、そして残って掃除をさせられるほどグランド全体に撒き散らした紙ふぶき。(練習などの準備期間もすごく楽しかった)。高3の学園祭では先生のパロディの演劇を脚本・製作・出演をして生徒には大ウケだったが一部の先生には不評で、職員室にみんなであやまりに行った。空白の一年を取り戻すべく完全燃焼の2年間でした。とにかく目立ちたがりの自分としてやりたいことをすべてやった高校生活。

◆私がのびのびできた訳
高2のとき親友がいました。彼は先生をはじめ周りにはあまり真面目じゃない生徒と思われていたが、私にとってはすごくいいヤツで。とても大好きでな親友だった。靴を買って学校に履いていくと、『あっ!靴買ったん?ええやん!』と言い、カットして翌日学校に行くと『あ、髪切ったんや!』って必ず声をかけてくれる。なんかそれが心地よくて。彼に会える学校がとても好きで心地よかったのを覚えている。まさに、変化した自分を受け入れてくれるっていう安心感かな。

◆勉強はそこそこ
勉強はそこそこだったが、頑張ったのが簿記。当時うちの学校では、はじめて高校生のうちに挑戦させたという
日商簿記2級の試験。絶対に合格したかった私は放課後に親に頼んで専門学校まで通い必死で勉強した。みんなが70点の合格点を狙う中、密かに100点満点を狙うがあえなく96点しかとれず。しかし、学年1位で担任の先生は驚き、感激していたが自分の中では悔しい気持ちでいっぱいだった。

◆ロックに目覚める
高一で友人が聴いていたRCサクセションでロックに目覚める。その後、ラウドネス、アースシェイカーなどハードロックに目覚め、自分でも演ってみたいという気持ちに変わっていく。
はじめてのバイト(郵便局)代で、3万8千円のエレキギターを購入しロック少年デビューを果たす。結局、ギターには挫折しギタリストにはなれずに、ヴォーカリストとなるが今でもギタリストへの夢は捨てていない。また、当時スタジオに行くお金も無かったので、友達の家で、アンプを通して大音量で歌い、演奏していたところを友達の親に見つかり怒鳴られる(しかも別の友達の家で2回も、、スミマセン。。。)


専門学校時代

◆簿記・会計の道へ
希望する大学に入れなかった私は、『簿記・会計』という道に進もうと専門学校へ進学。
勉強もそこそこ頑張るが、後半はバンド三昧。軽音楽部に入りバンドを結成。リーダーとなり、実力はあるのに、中々それを自分達で認めることの出来ないメンバーをいろんな場所へ引っ張り出し新しい世界を見せて行った。オリジナル曲つくり、レコーディング、ライブハウス出演、船上での卒業ライブなどそれまでバンドとしてやってみたかったことを2年間で全て行なう。2年生の時には授業中もオリジナル曲の作詞をずっとやっていた(笑)

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◆バイトもたくさんする

2年間で10種類以上のバイトを経験する。
ホテルのサービスマン、ビラ配り、喫茶店、郵便局、引越し屋、酒屋、ゴルフコンペでのドラコンの測定係や船着場のロープをかけるバイトなど友人からの紹介でしかできないようなレアなバイトも経験。ただお金をもらう仕事でも人と関わることで喜んでもらえる仕事と、間接的には誰かに喜んでもらっているんだけど縁の下の力持ち的な仕事があるんだと実感する。中でも、もっとも楽しかったのはこれまた友人の紹介でやった小さな居酒屋でのバイト。仕事をしながらも自分達が楽しめるようにいろいろ工夫して毎日を過ごす。あまりに私たち従業員が楽しそうなのでお客さんが『自分達の宴会を盛り上げて欲しい』と言われ、宴会の盛り上げ役をやっていたくらい。

◆生涯の仲間と知り合う
この頃、何かをすることが楽しいのではなく、ただ一緒にいるだけで楽しいと思える仲間に出会う。
遊びに行ったり、寮に泊まりに行ったり、飲みに行ったり、試験勉強をしたり・・・何をやっているときでも一緒にいることが幸せで最高の時間だった。
今から思えば本当にこんな仲間と一緒に居られた時間は人生の宝物の時間だった。

◆日産のディーラーに就職内定をもらう
面接時に、『コンピューターは全く出来ません』と正直に言ったことで一度は不合格となったが、どうしても行ってみたいという気持ちが通じたのか、なぜか再面接の末合格する。職種は経理。営業はやりたくなかったので経理。この頃は会社の仕事は営業か経理しかないと本気で思っていた(世間知らず)



社会人時代

◆日産のディーラーに入社
自動車会社に入社した理由は経理の募集があったから。営業はしたくないとかたくなに思っていた。
入ってみると学生時代とは違う拘束時間の長さに驚く。
初日に先輩に『昼休み以外に休憩時間はないのですか?』と尋ね学生気分全開な自分を暴露してしまった。
仕事は淡々とこなすがやっぱり、それだけでは達成感が得られず経理以外の仕事にも注目し始める。

◆社長賞を受賞
あるとき、この会社の伝統のあるメイン車種の新車発売のための宣伝ポスターを企画部長や社長などが集まって企画会議をしていた。そのとき、丁度残業をしていた私が呼ばれ、『発表前だから姿は見せずに新発売を宣伝するにはどんなポスターがいいだろうか?』と質問され、即答で『私ならこうします』と答え、なんとそれが採用され、全社キャンペーンのポスターとなってしまった。そして、それまで無かった社長賞が会社に新設され第一号となった。

◆さらに全国へ
当時日産が展開していた日産全体のイメージアップ活動で、若手社員による企画で日産のイメージアップを狙うというのがあり、なぜか会社の代表社員(1名)に選ばれ、全国の日産系ディーラーの代表ばかりを集めたグループのメンバーとなる。
そして、その第1回目の合同会議の際、グループの共通ロゴを募集することになり、熱く燃えるようなイメージでデザインしてみたら、今度はなんとそれが採用となり、名刺はもちろん、ポスターやTシャツ、トレーナーにも自分がつくったロゴが印字された。
さらに、兵庫県の代表メンバーで全国に先駆けてイベントを行い、派手にやろうとクラリオンガールを呼んだり、県下3ヶ所でのパレード同時開催など全国初ということでテレビ、ラジオ、新聞の取材やらがたくさん来て目立ちまくった。

◆やっぱり毎日のやりがいが欲しくて
とはいえ、仕事以外でもやりがいが欲しいと、職場で野球大会を自ら企画し、盛り上がるような工夫して開催する。思惑通りおおいに盛り上がり『またやりたいな』という言葉を引き出し、そのままの勢いで草野球チームの結成までこぎつける。ユニフォームを揃え、試合を行い、年末には表彰式に忘年会。ついに仕事以外のやりがいを見つけ、キャプテンとしてチームを盛り上げ3年以上続ける。阪神大震災の前日にも合同自主トレと称して珍しく練習を行なったが、その後続行不可能となる。
一方で、バンド活動も再開し新バンドを結成する。このバンドは、全曲オリジナルで力が入る。そのうち週に一度真夜中までスタジオ練習を行なっていたが、さらにエスカレートして朝方までスタジオに入るようになり、日によっては朝刊を手渡しで新聞配達の人にもらうようなこともあった。昭和から平成に変わる瞬間もオリジナル曲のレコーディングをしており、その曲はサブタイトルに『昭和~平成バージョン』と言っていた。

◆電機メーカーに転職
特に行きたかったわけでもないが、家から近く、給料が上がるのと休暇が1.5倍くらいになる理由から転職する。ほとんど転職先の会社について調べずに面接に臨み、その会社が自分が思っていた会社とは違う会社だということを、当日他の受験生との会話で気付きめちゃくちゃ焦る。その直後の面接試験では、会社についてや会社の製品の話題には一切触れずに面接直前に流れていた業務時間中の業間体操についての話題に強引に持っていく。それが好印象だったのか気に入られ、その場で内定を頂く。


自分の好きなことに出会う

◆結婚そして父親に
5年半の交際を経て結婚をする。結婚式場を決めるときにとても気に入った会場を見つけたが、そのときに予定していた規模よりかなり多めの人数でしかお貸しすることは出来ないと言われた。しかし、『はい。その○○人規模でするつもりです!』と即答し、隣にいた嫁さん(当時は彼女)にびっくりされる。
こんな風に適当に言ってもなんとかなるからタチが悪いのだが(笑)。結局、この時も人数が増えてそれに近い規模で行なうことになった。
また当日は、ホテルで衣装を借りずに2次会にもその衣装を着ようと思っていた。それで、タキシードとウェディングドレスで2次会会場まで歩いて行ったら道行く人の注目の的となってしまった。
披露宴では、来てもらいたいと希望した友人全てが全国から集まってくれ感謝の想いで涙でボロボロになった。今でも当時の感覚をすぐに思い出せるほど感激と感動の一日となった。
そして、その数年後、3人の息子の父親となり改めて自分の人生について考えるようになっていく。

◆一生の親友を癌で亡くす
専門学校の入学式に行く道で、同じ制服を着ていたことからなぜか声をかけたことがきっかけでその後大親友となったTくんを26歳の若さで亡くす。卒業後もずっと声が聞きたいという理由で電話をしてくるようなヤツで、結婚をして岡山に住んでいた彼が何の運命か神戸の病院に入院し、彼の奥さんに癌だという告白を受けてから、すべてのいまの自分の運を彼の命を伸ばすためだけに使うと決意。この間は、あらゆる予測も予想もせず、じゃんけんすらしなかった。そして、テレビ断ちをして、週に3回くらいお見舞いに行った。足の裏マッサージも覚え彼の病院でやったこともあった。ずっと自分の娘と散歩に行きたいと言ってた彼の一人娘は皮肉なことに彼が歩けないようになってから病院で歩けるようになった。そして、彼は医者の余命予測を大きく超えて最後まで家族のために頑張ってくれた。自分の父親のときでもでなかったほど涙が溢れて仕方がなかった。僕は、一生の親友を亡くしたこの日のことを忘れないように。彼の命日である、94年7月6日のこのことを『9476』というバラードのオリジナル曲をつくった。

◆頑張っていない自分に喝!
バンド活動も終わり、会社と家の往復という毎日をすごしている自分に嫌気がさし、頑張る自分を感じたいと突然、資格取得を目指す。そして、当時流行りつつあったファイナンシャルプランナー(AFP)を受験し合格する。
するとその上級資格であるCFPという国際ライセンスがあると知り、これにも2年かけて合格する。この間GWなどの長期休暇や平日も仕事帰りに図書館に通いめちゃくちゃ勉強した。
おかげで頑張っている自分を感じることができ資格も取得できた。なぜ、CFPをとったかは、この資格をとることで、誰かの役に立てる自分をイメージしていたから。常に個人的にカウンセリングをしているようなイメージがあった。

◆キャッシュフローゲーム(CFG)会との出会い
FPの受験時代に本『金持ち父さん貧乏父さん』で読んで知っていたCFGを体験しようと大阪(堺)に行く。そこでCFGだけでは、ない人とのつながりというものに出会い、これまで自分がずっと探していたものがやっと見つかったというような衝撃を受ける。
実はこの日の参加がその後の自分の人生を大きく変えることになることになる。CFGももちろん楽しかったが、その後の懇親会の雰囲気に驚かされる。そこは、初対面にも関わらずリラックスして、躊躇せずに自分の夢を語り合えるすばらしい仲間が居る空間だった。そして、この環境を地元に創りたいと神戸にてCFG会を開催したいとこの日から思い始める。

◆CFG神戸をスタート
ゲーム経験1回、持っているゲーム盤ゼロ、いっしょにやってくれる仲間ゼロ、自信、成功ノウハウも何もなかったが、『地元神戸にあの会を創りたい』という想いだけで、翌日より神戸で開催するにはという視点で調査開始。『せっかくだから、会議室で終わらずに、神戸の夜景も楽しんで欲しい』『女性でも一人で参加できる場所にしたい』『セミナーにはこれまで不安で参加できなかったという人にも参加してほしい』このような想いが自分の中で言葉として具体的に浮かんでくる。その意図を元に会議室、懇親会会場、開催規模、開催頻度などを具体的に考える。

◆運命のメールが
そんな、私の想いが外に伝わっていたのか、京都の立石剛氏とのメールのやりとりから『神戸にCFG会を創る』という話に発展。その時点ですでに出来上がっているプランを披露して驚かせる。準備は出来ていたのだ(笑)

harbor_017.jpg 数日後、直接会うのは2度目だった私たちは互いの想いに盛り上がり、初冬の神戸にも関わらず神戸港に面したオープンカフェでお互いの夢について語り合ったドラマティックなひと時となった。
そしてこの日から本格的にCFG会を神戸に創るというプロジェクトをスタートさせる。チームで運営を行ないたかった私はメンバーを集めることに。そして、運命的に出会ったメンバーとともに『未来へ夢をつなげよう』を設立。2004年1月の開催に向けて運命の時間がスタートした。


◆人との出会いで人生が加速し始める
CFG会と出会い、CFG神戸を主催することで有名なベストセラー作家から普通の人まで年間で数百名の人と出会うようになる。次第に自分の進みたい方向や、自分の好きなことに気付いていく。
また人生におけるメンターと呼ぶにふさわしい人や仲間にもこの頃に出会う。実はこの5年前に未来の自分像ということで、『お互いに尊敬できるすばらしい友人を持っている』と紙に書いていたが正にそのとおりとなった。
また、会の代表としてチームをまとめるリーダーシップやコミュニケーション、そしてマーケティングなどを実体験として身に付けていく

◆メルマガを創刊
自然な流れでメルマガ『人を成長させる魔法のリーダーシップ』を創刊。なんとなく、当時の言いたいことや気づいたことを書いて発行していたが、創刊2週間にしてまぐまのオススメメルマガに選ばれ数日で1000名以上の読者が集まりびっくりする。その後は、メルマガ内でメールコンサルやリーダーにむけてセッションなどを行う。2005年に半年限定募集のリーダー育成講座を開始したところ、今度は400名以上の受講者が集まり、またまたびっくりする。

◆個人の活動も加速
偶然見つけたサイトがコーチングのサイトで、そこには、まさにそのときの自分の進みたい方向が広がっており、迷うことなくその場でコーチング講座に申し込み本格的に学び始める。
そして、学び始めて8ヶ月ほどしたときにコーチをしていたクライアントは、半年で2倍の売上げを上げたいという目標ではじめたが、なんと3ヶ月で売上げが5倍となってしまい自分でもそのコーチングのすごさを改めて実感する。
その後は、資格取得を目指す人たちのコーチとなると簿記検定、秘書検定、会社の昇進試験などまったくバラバラの試験にもかかわらずすべてに、予想を大きく超える短時間で希望の結果を導き出すということも達成した。(7人受けて7人とも合格)。

◆セミナーコンテスト出場

友人の立石氏の勧めにより、プロジェクトR21主催のセミナーコンテストに出場する。それまで何度かセミナーをやったことがあったものの自己流だったが、ここでセミナーの組み立てからプレゼンまでを勉強し、実行する機会に恵まれてとてもよかった。そして、テーマを2004年からの人生で気づいたこと『環境が人を創る』ということに決め、オリジナルセミナーを作成し当日コンテストに出場。すると8組の参加者の中で優勝してしまうという結果に。記念受験のような気楽な気持ちでありながらまじめに取り組んだ結果としての優勝はこれからのセミナー講師という可能性を見つけるきっかけとなる。

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また、このあたりから、コーチとしての立場を自分として今後どうやって行くかということで悩み始めるが、企業内でのコーチングでの結果が少しずつ見え始める。物事の変化と時間の関係に気づき始めた頃。
 
◆終焉そして再始動

まったくのゼロから立ち上げ、4年半で1400名以上の参加者を集め関西でも有数のコミュニティとなり、自分を成長させてくれたCFG神戸を2008年夏に自らの意思で完了とする。ファイナルにはそれまで一緒にやってきてくれたスタッフ、参加者にかこまれサプライズの卒業式までやっていただき感謝と涙でいっぱいの時間となった。
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これまでのさまざまな経験をもとにコーチング、コミュニケーションの分野に今まで以上に力をいれようと決意し、次のステージへと進む決意をする。


◆バンド活動再開
高校時代からの親友からバンド参加の誘いを受けバンド活動を約5年ぶりに再開する。
これまでのバンド活動でもっとやりたかった、アースシェイカーの曲だけのコピーバンド。
オリジナルはもちろん他のバンドの曲にも一切目もくれない(笑)
プロになりたいわけじゃない、ライブをしたいわけでもないただアースシェイカーの曲を
演りたいだけのバンドが最高なんです。
そして、調子に乗ってメンバーのお店をスタジオに改造しそこでリハーサルを行うようになる。
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◆26年越しの夢が叶う!
月に一回、のんびりと気楽にリハーサルをしていたところに晴天の霹靂!
なんとアースシェイカーのヴォーカリストであるマーシーさんのアコースティックライブを
自分たちのリハーサルスタジオで開催することとなる。しかも、せっかくだからということで
2部でライブセッションも行うことに!!!
その日から、会場作り、企画、そしてなにより練習(笑)の日々が始まる。
そして、17歳よりの26年越しの夢である、アースシェイカーのマーシーさんに会うという夢を叶える
この日には、はじめて家族全員を会場に呼び、大人が夢を持ち、そして夢を叶える素晴らしさを伝える。
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◆夢を叶えるということ
26年越しの夢を叶えたことで、『夢が叶う』ことを考え始める。そして、そのことから見えてきた
仕組みを体系化しセミナーにして2010年より伝えることを始めた。



・・・こんな私ですがよろしくお願いします。

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2010-03 記


好きなもの、好きなこと、会いたい人、やりたいこと

私の好きなもの、好きなこと、そして会いたい人、やりたいことについて書ます。
共感できるって方、または『あっ!その人なら私知ってるけど・・・』とか『そういう話ならツテがあるよ』って方、
是非是非、ご一報ください!(笑)
お待ちしております!
 

◆好きなもの、好きなこと
・iPhone
・レッツノート
・ほぼ日手帳
・アースシェイカー
・ハードロックカフェ
・ハワイ


◆お会いしたい人 ~ そして、お友達になりたい人
・西田昌史さん(ミュージシャン)  → お会いしました。って言うか、
なんと一緒にステージで唄わせていただきました!(2009-9)

高校生からの、26年越しの夢が叶いました!
その時のレポートを記念に書いてみました。興味のある方だけどうぞ!

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・所ジョージさん(遊びの天才・ミュージシャン)
・福島正伸さん(作家)→ お会いしました。(2009-10)
・エビちゃん(モデル)

◆行ってみたいところ

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世田谷ベース(所ジョージさんの事務所)
JEEP島

◆やってみたいこと (達成したいこと) ビジネス
・西田昌史さんのコーチになる
・お金のセミナーをする→ 開催しました。(2008-10)
・本の出版をする
・学校(小学校、中学校、高校)でコーチング講座をする
・みらいマップセミナー開催→ 開催しました。(2009-4)
・神戸市主催でコーチング講座をする→ 開催しました。(2010-1)
・コラムの連載をスタートさせる
・感動をテーマにした講演を行う
・海の見えるオフィスを持つ
・海沿いにあるカフェを持つ


◆やってみたいこと (達成したいこと) プライベート
・バンド活動→ やりはじめました(2008-10~)
・レコーディング
・ライブコンサート→ 開催しました。(2009-09)
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・アコースティックギターが弾けるようになる
・サックスが吹けるようになる
・ディズニーワールドに家族で行く
・ハワイに家族で行く
・ホームステイ(語学留学)
・バーテンダーのようにシェイカーをふる
・座禅
 

これからも随時増やして行きます!
(2010-1 更新)

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