自己紹介

まずは、私の紹介をさせていただきます。
コーチは、私だけじゃなく他にもたくさんいます。あなたと共感できる人間かどうか?
同じような価値観・世界観があるかを是非、数々の文章から感じてみてください。
あと、後半はターザンができるまで。幼少期~現在までを急ぎ足で書いています。お時間のある時にでも

Personal & Fun & Like

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Coach ,CFP

ターザン

Coaching GARAGE 代表
未来へ夢をつなげよう 代表
岸英光コーチング連続講座A,Bカリキュラム完了
NHK神戸コーチング講座サポート講師
神戸市市民講師

2004年よりコミュニティ運営を通じて経験した事例を中心にコミュニケーションのメールマガジンを創刊。このメルマガは創刊時より話題となり創刊3週間でまぐまぐスタッフのおすすめメルマガに選出される。
その後、リーダーシップを5日間で学べるメール講座を配信。半年限定ながら400名の受講生を集める。
同じ頃、コーチングに出会いこれまで自分がやっていたことや、またこれからやりたいこと、自分が望んでいるものこそが“コーチング”だと知り衝撃を受ける。すぐに、日本のとコーチの第一人者である岸英光氏を師事し本格的に学び始めると同時に自らコーチとしての活動をクローズで開始する。
紹介で依頼を受け売上減に苦しんでいた経営者の方が、1年で当時の2倍の売上という長期目標でセッションを受け、セッション開始数ヶ月で5倍の売り上げをあげるなどの驚異的なコーチングの可能性を感じたことがきっかけで本格的にコーチとしての活動を開始する。
その後は、売上げUPから恋愛まで広範囲でのコーチングを行っている。
人が本来持っている力を発揮できることで目標を達成するという『環境が人を育てる』をモットーにコーチとしての活動を続けながら地元でコーチングコミュニティを設立し、文字通り地域とのコミュニケーションを行う活動も精力的に行っている。

 

◆師匠
岸英光氏

◆メンター
福島正伸氏

◆音楽
・アースシェイカー

◆映画
・フィールド・オブ・ドリームズ
・ALWAYS~3丁目の夕日

幼少~小学校時代

◆1966年6月11日神戸で生まれる 二人兄弟の長男
サラリーマンの父と専業主婦の母の第一子として誕生。
4人兄弟の末っ子だった父は、お兄さんたちでもなしえなかった第一子長男誕生に大喜びだったそう。
(ちなみに従兄弟9人のうち男性は私を含めて2人だけ)
幼い頃は、とにかく、虫が好きで、図鑑の中でも虫の巻だけが異常にボロボロだったそう。
どこへ行くにも毎日、持って歩いてたらしい。

◆両親の愛を感じたクリスマス
クリスマスの日は必ず夜に父を迎えに外に行ってました。
母と妹の3人で迎えに行き、道中で父に会って一緒に家に帰ります。その後帰宅して、一家でくつろいでいるときに 『あれ?いまトイレの方で何か音がしなかった?ちょっと見てきてくれる?』と母、そして私が見に行くとそこにはサンタさんからのクリスマスプレゼントが!
この仕組み、実は前もって父から母に電話があり、その電話で私と妹を連れて母が外に出ます。その間に父が家にこっそり戻ってプレゼントを置いて、再び外に出て迎えに来ていた私たちと出会うという演出。
当然、私たちは父はそのときに会社から帰ってきたと思っているので、まさか前もって父がプレゼントを家に置いていてたなんて知りません。
この話を大人になって知ったときには、子供たちに夢を与えようと二人で全力で考えて実行してくれた両親の愛情を感じとても感謝の気持ちがわきました。
母も途中で絶対に私たちと父が出会わないように、わざと遠回りして父を迎えに行ってたそうです。(笑)

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◆小学2年生 人生を変えた『転校』
新設の小学校に転校する。卒業後20年ほどたって開催した同窓会で先生に聞いたのですが、当時は、まだ学校としての全体の教育方針がしっかりと決まっておらずに学年ごとにいろんな教育方針を試していたそうです。で、私たちの学年はなんと『遊ばせる学年』(笑)
水泳の授業が盛り上がったらそのまま次の授業も継続してやったり。雪が積もると朝から晩まで雪合戦。
毎日の宿題はもちろん、夏休み宿題もゼロ!夏休みは友達と毎日海水浴に行ってました。で、帰りには近所の宿泊施設 ○子ビラに宿泊客の子供のふりをしてちゃっかりと毎回お風呂に入って帰ってきてました。
自由な毎日のもと好きなことを好きなだけできる環境で、遊びと野球に明け暮れる日々を過ごしていました。
5年に一度開催している同窓会(私が幹事です)には、全国から元クラスメイトが集まり、卒業時の担任の先生だけでなく歴代の担任の先生も全て呼ぶという大きなイベントとなっています。

◆子供の頃の私 ひょうきん者で人気者
人を笑わせるのが好きで、面白い人というイメージだったよう。
お楽しみ会などで『好きなもの同志で集まる』時には、席を移動するのではなく、みんなが集まってくるような存在だった。卒業時のサイン帳も一日に3~4つお願いされ眠い目をこすりながら一生懸命書いていたらしいです。

◆小学3年生の時、新聞係を考案
クラスの係としとて新聞係を考案。これはいわゆる壁新聞を作る係。それまで飼育係や黒板消しの掃除係など学校生活で必要な仕事をするのが係という暗黙の了解だった教室に衝撃を与える。新聞係になると同時に『アカンベー新聞』を創刊。(マークも確かあったはず) 結局この新聞は50号くらい続き、その後の新聞係ブームを巻き起こす。一時はクラスの半分以上が新聞係となって壁新聞を発行しているような状態だった。主な活動としては模造紙に4コマ漫画やら面白おかしい記事を書いて、翌日誰よりも早く登校して教室に貼り出していた。

◆ピンクレディーのファン
小学3年生の時、ピンクレディーのファンとなり、歌と踊りを完璧に覚えた。カブスカウトのクリスマス会では友達とペアで歌マネを披露して、そのレベルの高さでみんなを驚かせた。ちなみにミーのパートしかできずケイ役はO君だった。また父が石鹸メーカーに勤めていたおかげで、ピンクレディーがCMをつとめるシャンプーの景品である下敷きを全種類もらい、ちょっとうれしい気分だった。

◆少年野球に熱中する
父の影響もあって野球を始める。父もコーチとして大切な休みを練習に付き合ってくれた。夜は家の前で素振り、父が早く帰ったときにはキャッチボールをしてくれた。父に『おっ!けっこう球 速くなったな』と言われたくていつもキャッチボールでも常に全力投球をしていた。このころ父がよく言ってたのは『練習の時には自分が一番ヘタクソだと思え。そして試合のときは自分が一番ウマイと思え』だった。当時の私には深すぎて意味がまったくわからなかったが今となってはすごい教えをいただいてたんだと改めて思います。

◆スポーツ大好き
野球のほかには、手打ち野球、エンドボール、ポートボール、バレーボール(地域の小学校対抗戦に出た)、バドミントン(ダブルスでは学年で優勝!)
ドッジボールは受けるのは大丈夫だが投げるのが苦手だった。水泳は平泳ぎでなんかの大会に出た。
放課後にはインサを毎日していた。

 

中学校・高校時代

◆野球そして野球
中学、高校と野球部。
理由はスポーツで唯一好きを超えて、できたのが野球だったから。中一の野球部練習の初日、一年生は基礎練習ということでボールには触らせてもらえず(夏休みまでは基礎練習ばかり) 学校の外のランニングコースを走ったが、それまでの人生で最高の量の汗をかくほど走ったが、先輩に『まあ初日だから今日は女子のコースにしといたから』と言われ小学生と中学生の体力の違いに唖然とした。

◆校内暴力全盛期
時は、校内暴力全盛期。どこかの中学校から殴りこみに来るだの、先生が殴られただのというニュースが新聞をにぎわし、金八先生でも荒谷二中が荒れてて桜中学までその影響があったりと、社会的問題となっていた。
しかし、うちの中学校は、『遊ばせる学年』あがりの子供たちが約半分いるために、全体的にのんびりとしていて
いわゆる不良という人が一人もおらず、当然番長と呼ばれる人もいなかった。だから、どこかの中学の不良グループが突然来て『この中学の番長出て来い!』と言われても、野球部のキャプテンが行って『今日は何の用ですか?』と、対応しているような中学だった。
しかし、そんな平和な中学に、あるとき転校生がやって来た。見るからにいかにも不良中学生。来て早々、『この中学の番長は誰や?俺はこう見えても前の中学では副番で特攻隊長やってたんだ』と豪語されたが、その言葉の価値を全く理解できず、しかも番長がいないので対応もできなかった(笑) それどころか、それを聞いた私たちは、『丁度いいやん!うちの中学は、番長がおらんから今日からオマエが番長になってくれや!ぎゃははは~』というようなしまつ。そんな感じでバリバリの不良学生もつるむ仲間もケンカする相手もいない場所では不良としてやっていけず(不良グループ結成できないので(笑)) 気付いたらいつのまにか真面目な普通の生徒になってしまった。環境は人を変えてしまうんだと実感した貴重な経験だった。

◆人生の教訓
忘れられない体験が中3の冬に開催された駅伝大会。
当時、一生懸命することが照れくさかったのか、負けることが恥ずかしかったのかは不明だがクラスから代表となった6人の駅伝メンバーで『ゆっくりと力を抜いていこう』と約束してスタート。終わりから2人目の5区が私。
1区の選手は学年でも長距離がかなり速いM君だったが、打ちあわせ通りぶっちぎり最下位の6位で戻ってきた。そして2区の選手へ・・・ しかし、沿道で応援してくれるクラスメイトや頑張っている他のクラスの仲間を見ていると次第に『ゆっくりと力を抜いて・・』とは行かなくなってきた。また、段々とそんな自分自身が許されなくなってきて、あれだけぶっちぎりの最下位だった私たちのクラスが、あれよあれよと追い上げ、私のひとつ前ではついにトップとなってしまった。そして、トップのタスキを受けた私は必死で走った。絶対に追い抜かれるわけにはいかない。心臓が口から飛び出しそうになるほど必死で走りました。そして、トップのままアンカーへタスキを、2位のクラスのアンカーは陸上部の長距離の選手。そして、最後の最後でとうとう私たちのクラスは追い抜かれて2位になってしまいました。
『最初から一生懸命やっていたら・・・』 あとで、悔やんでも時間は戻りません。負けるところを見られるのがカッコ悪い、一生懸命やっている姿を見られるのが恥ずかしい・・・ 今思えば、わざと力を抜くという決断をした自分たちが許せないのです。それが悔しかったのです。今でも忘れられない苦い思い出です。

◆商業高校へ、、、まるで女子高
中学を卒業し近所の商業高校へと進学したが、学年450名に対して女子生徒が370名!!まるで女子高。10クラスの中には当然女子だけのクラスもあるし、私のクラスは2/3が女子。どのクラスも、女子が強くて大奥のようで男子はホント立場がない。『このままじゃ、自分の青春は台無しだ!2年生になったら絶対に自分らしさを出して楽しくすごすぞ!』ということを強く心に誓い、2年、3年生は超楽しく過ごす。

◆高校でもいろいろ挑戦
学園祭では、顔を黒く塗ってラッツ&スター、教室を使ってのクイズコーナでは司会者。体育祭では、一世風靡セピアで、ダンスに爆竹、そして残って掃除をさせられるほどグランド全体に撒き散らした紙ふぶき。(練習などの準備期間もすごく楽しかった)。高3の学園祭では先生のパロディの演劇を脚本・製作・出演をして生徒には大ウケだったが一部の先生には不評で、職員室にみんなであやまりに行った。空白の一年を取り戻すべく完全燃焼の2年間でした。とにかく目立ちたがりの自分としてやりたいことをすべてやった高校生活。

◆私がのびのびできた訳
高2のとき親友がいました。彼は先生をはじめ周りにはあまり真面目じゃない生徒と思われていたが、私にとってはすごくいいヤツで。とても大好きでな親友だった。靴を買って学校に履いていくと、『あっ!靴買ったん?ええやん!』と言い、カットして翌日学校に行くと『あ、髪切ったんや!』って必ず声をかけてくれる。なんかそれが心地よくて。彼に会える学校がとても好きで心地よかったのを覚えている。まさに、変化した自分を受け入れてくれるっていう安心感かな。

◆勉強はそこそこ
勉強はそこそこだったが、頑張ったのが簿記。当時うちの学校では、はじめて高校生のうちに挑戦させたという
日商簿記2級の試験。絶対に合格したかった私は放課後に親に頼んで専門学校まで通い必死で勉強した。みんなが70点の合格点を狙う中、密かに100点満点を狙うがあえなく96点しかとれず。しかし、学年1位で担任の先生は驚き、感激していたが自分の中では悔しい気持ちでいっぱいだった。

◆ロックに目覚める
高一で友人が聴いていたRCサクセションでロックに目覚める。その後、ラウドネス、アースシェイカーなどハードロックに目覚め、自分でも演ってみたいという気持ちに変わっていく。
はじめてのバイト(郵便局)代で、3万8千円のエレキギターを購入しロック少年デビューを果たす。結局、ギターには挫折しギタリストにはなれずに、ヴォーカリストとなるが今でもギタリストへの夢は捨てていない。また、当時スタジオに行くお金も無かったので、友達の家で、アンプを通して大音量で歌い、演奏していたところを友達の親に見つかり怒鳴られる(しかも別の友達の家で2回も、、泣)

専門学校時代

◆簿記・会計の道へ
希望する大学に入れなかった私は、『簿記・会計』という道に進もうと専門学校へ進学。
勉強もそこそこ頑張るが、後半はバンド三昧。軽音楽部に入りバンドを結成。リーダーとなり、実力はあるのに、中々それを自分達で認めることの出来ないメンバーをいろんな場所へ引っ張り出し新しい世界を見せて行った。オリジナル曲つくり、レコーディング、ライブハウス出演、船上での卒業ライブなどそれまでバンドとしてやってみたかったことを2年間で全て行なう。2年生の時には授業中も作詞をずっとやっていた(笑)

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◆バイトもたくさんする

2年間で10種類以上のバイトを経験する。
ホテルのサービスマン、ビラ配り、喫茶店、郵便局、引越し屋、酒屋、ゴルフコンペでのドラコンの測定係や船着場のロープをかけるバイトなど友人からの紹介でしかできないようなレアなバイトも経験。ただお金をもらう仕事でも人と関わることで喜んでもらえる仕事と、間接的には誰かに喜んでもらっているんだけど縁の下の力持ち的な仕事があるんだと実感する。中でも、もっとも楽しかったのはこれまた友人の紹介でやった小さな居酒屋でのバイト。仕事をしながらも自分達が楽しめるようにいろいろ工夫して毎日を過ごす。あまりに私たち従業員が楽しそうなのでお客さんが『自分達の宴会を盛り上げて欲しい』と言われ、宴会の盛り上げ役をやっていたくらい。

◆生涯の仲間と知り合う
この頃、何かをすることが楽しいのではなく、ただ一緒にいることが楽しいと思える仲間に出会う。
遊びに行ったり、寮に泊まりに行ったり、飲みに行ったり、試験勉強をしたり・・・何をやっているときでも一緒にいることが幸せで最高の時間だった。
今から思えば本当にこんな仲間と一緒に居られた時間は人生の宝物の時間だった。

◆日産のディーラーに就職内定をもらう
面接時に、『コンピューターは全く出来ません』と正直に言ったことで一度は不合格となったが、どうしても行ってみたいという気持ちが通じたのか、なぜか再面接の末合格する。職種は経理。営業はやりたくなかったので経理。この頃は会社の仕事は営業か経理しかないと本気で思っていた(世間知らず)

社会人時代

◆日産のディーラーに入社
自動車会社に入社した理由は経理の募集があったから。営業はしたくないとかたくなに思っていた。
入ってみると学生時代とは違う拘束時間の長さに驚く。
初日に先輩に『昼休み以外に休憩時間はないのですか?』と尋ね学生気分全開な自分を暴露してしまった。
仕事は淡々とこなすがやっぱり、それだけでは達成感が得られず経理以外の仕事にも注目し始める。

◆社長賞を受賞
あるとき、この会社の伝統のあるメイン車種の新車発売のための宣伝ポスターを企画部長や社長などが集まって企画会議をしていた。そのとき、丁度残業をしていた私が呼ばれ、『発表前だから姿は見せずに新発売を宣伝するにはどんなポスターがいいだろうか?』と質問され、即答で『私ならこうします』と答え、なんとそれが採用され、全社キャンペーンのポスターとなってしまった。そして、それまで無かった社長賞が会社に新設され第一号となった。

◆さらに全国へ
当時日産が展開していた日産全体のイメージアップ活動で、若手社員による企画で日産のイメージアップを狙うというのがあり、なぜか会社の代表社員(1名)に選ばれ、全国の日産系ディーラーの代表ばかりを集めたグループのメンバーとなる。
そして、その第1回目の合同会議の際、グループの共通ロゴを募集することになり、熱く燃えるようなイメージでデザインしてみたら、今度はなんとそれが採用となり、名刺はもちろん、ポスターやTシャツ、トレーナーにも自分がつくったロゴが印字された。
さらに、兵庫県の代表メンバーで全国に先駆けてイベントを行い、派手にやろうとクラリオンガールを呼んだり、県下3ヶ所でのパレード同時開催など全国初ということでテレビ、ラジオ、新聞の取材やらがたくさん来て目立ちまくった。

◆やっぱり毎日のやりがいが欲しくて
とはいえ、仕事以外でもやりがいが欲しいと、職場で野球大会を自ら企画し、盛り上がるような工夫して開催する。思惑通りおおいに盛り上がり『またやりたいな』という言葉を引き出し、そのままの勢いで草野球チームの結成までこぎつける。ユニフォームを揃え、試合を行い、年末には表彰式に忘年会。ついに仕事以外のやりがいを見つけ、キャプテンとしてチームを盛り上げ3年以上続ける。阪神大震災の前日にも合同自主トレと称して珍しく練習を行なったが、その後続行不可能となる。
一方で、バンド活動も再開し新バンドを結成する。このバンドは、全曲オリジナルで力が入る。そのうち週に一度真夜中までスタジオ練習を行なっていたが、さらにエスカレートして朝方までスタジオに入るようになり、日によっては朝刊を手渡しで新聞配達の人にもらうようなこともあった。昭和から平成に変わる瞬間もオリジナル曲のレコーディングをしており、その曲はサブタイトルに『昭和~平成バージョン』と言っていた。

◆電機メーカーに転職
特に行きたかったわけでもないが、家から近く、給料が上がるのと休暇が1.5倍くらいになる理由から転職する。ほとんど転職先の会社について調べずに面接に臨み、その会社が自分が思っていた会社とは違う会社だということを、当日他の受験生との会話で気付きめちゃくちゃ焦る。その直後の面接試験では、会社についてや会社の製品の話題には一切触れずに面接直前に流れていた業務時間中の業間体操についての話題に強引に持っていく。それが好印象だったのか気に入られ、その場で内定を頂く。

自分の好きなことに出会う

◆結婚そして父親に
5年半の交際を経て結婚をする。結婚式場を決めるときにとても気に入った会場を見つたが、そのときに予定していた規模よりかなり多めの人数でしかお貸しすることは出来ないと言われた。しかし、『はい。その○○人規模でするつもりです!』と即答し、隣にいた嫁さん(当時は彼女)にびっくりされる。
こんな風に適当に言ってもなんとかなるからタチが悪いのだが(笑)。結局、この時も人数が増えてそれに近い規模で行なうことになった。
また当日は、ホテルで衣装を借りずに2次会にもその衣装を着ようと思っていた。それで、タキシードとウェディングドレスで2次会会場まで歩いて行ったら道行く人の注目の的となってしまった。
披露宴では、来てもらいたい友人が全国から集まってくれ感謝の想いで涙でボロボロになった。今でも当時の感覚をすぐに思い出せるほど感激と感動の一日となった。
そして、その数年後、3人の息子の父親となり改めて自分の人生について考えるようになっていく。

◆頑張っていない自分に喝!
バンド活動も終わり、会社と家の往復という、毎日をすごしている自分に嫌気がさし、頑張る自分を感じたいと突然、資格取得を目指す。そして、当時流行りつつあったファイナンシャルプランナー(AFP)を受験し合格する。
するとその上級資格であるCFPという国際ライセンスがあると知り、これにも2年かけて合格する。この間GWなどの長期休暇や平日も仕事帰りに図書館に通いめちゃくちゃ勉強した。おかげで頑張っている自分を感じることができ資格も取得できた。なぜ、CFPをとったかは、この資格をとることで、誰かの役に立てる自分をイメージしていたから。常に個人的にカウンセリングをしているようなイメージがあった。

◆キャッシュフローゲーム(CFG)会との出会い
FPの受験時代に本『金持ち父さん貧乏父さん』で読んで知っていたCFGを体験しようと大阪(堺)に行く。そこでCFGだけでない人とのつながりというものに出会い、これまで自分がずっと探していたものがやっと見つかったというような衝撃を受ける。実はこの日の参加が自分人生を大きく変えることになることになる。CFGももちろん楽しかったが、その後の懇親会の雰囲気に驚かされる。そこは、初対面にも関わらずリラックスして、躊躇せずに自分の夢を語り合えるすばらしい仲間が居る空間だった。そして、この環境を地元に創りたいと神戸にてCFG会を開催したいとこの日から思い始める。

◆CFG神戸をスタート
ゲーム経験1回、持っているゲーム盤ゼロ、いっしょにやってくれる仲間ゼロ、自信、成功ノウハウも何もなかったが、『地元神戸にあの会を創りたい』という想いだけで、翌日より神戸で開催するにはという視点で調査開始。『せっかくだから、会議室で終わらずに、神戸の夜景も楽しんで欲しい』『女性でも一人で参加できる場所にしたい』『セミナーにはこれまで不安で参加できなかったという人にも参加してほしい』このような想いが自分の中で言葉として具体的に浮かんでくる。その意図を元に会議室、懇親会会場、開催規模、開催頻度などを具体的に考える。

◆運命のメールが
そんな、私の想いが外に伝わっていたのか、京都の立石剛氏とのメールのやりとりから『神戸にCFG会を創る』という話に発展。その時点ですでに出来上がっているプランを披露して驚かせる。準備は出来ていたのだ(笑)

harbor_017.jpg 数日後、直接会うのは2度目だった私たちは互いの想いに盛り上がり、初冬の神戸にも関わらず神戸港に面したオープンカフェでお互いの夢について語り合ったドラマティックなひと時となった。そしてこの日から本格的にCFG会を神戸に創るというプロジェクトをスタートさせる。チームで運営を行ないたかった私はメンバーを集めることに。そして、運命的に出会ったメンバーとともに『未来へ夢をつなげよう』を設立。2004年1月の開催に向けて運命の時間がスタートした。

人との出会いで人生が加速

◆人との出会いで人生が加速し始める
CFG会と出会い、CFG神戸を主催することで有名なベストセラー作家から普通の人まで年間で数百名の人と出会うようになる。次第に自分の進みたい方向や、自分の好きなことに気付いていく。また人生におけるメンターと呼ぶにふさわしい人や仲間にもこの頃に出会う。実はこの約5年前に未来の自分像ということで、『お互いに尊敬できるすばらしい友人を持っている』と紙に書いていたが正にそのとおりとなった。
また、会の代表としてチームをまとめるリーダーシップやコミュニケーション、そしてマーケティングなどを実体験として身に付けていく

◆メルマガを創刊
自然な流れでメルマガ『人を成長させる魔法のリーダーシップ』を創刊。なんとなく、当時の言いたいことや気づいたことを書いて発行していたが、創刊2週間にしてまぐまのオススメメルマガに選ばれ数日で1000名以上の読者が集まりびっくりする。その後は、メルマガ内でメールコンサルやリーダーにむけてセッションなどを行う。2005年に半年限定募集のリーダー育成講座を開始したところ、今度は400名以上の受講者が集まりまたまたびっくりする。

◆個人の活動も加速
偶然見つけたサイトがコーチングのサイトで、そこには、まさにそのときの自分の進みたい方向が広がっており、迷うことなくその場でコーチング講座に申し込み本格的に学び始める。そして、学び始めて8ヶ月ほどしたときにコーチをしていたクライアントは、半年で2倍の売上げを上げたいという目標ではじめたが、なんと3ヶ月で売上げが5倍となってしまい自分でもそのコーチングのすごさを改めて実感する。
その後は、資格取得を目指す人たちのコーチとなると簿記検定、秘書検定、会社の昇進試験などまったく別の試験にもかかわらずすべてに、予想を大きく超える短時間で希望の結果を導き出すということも達成した。(7人受けて7人とも合格)。

◆セミナーコンテスト出場

友人の立石氏の勧めにより、プロジェクトR21主催のセミナーコンテストに出場する。それまで何度かセミナーをやったことがあったものの自己流だったが、ここでセミナーの組み立てからプレゼンまでを勉強し、実行する機会に恵まれてとてもよかった。そして、テーマを2004年からの人生で気づいたこと『環境が人を創る』ということに決め、オリジナルセミナーを作成し当日コンテストに出場。すると8組の参加者の中で優勝してしまうという結果に。記念受験のような気楽な気持ちでありながらまじめに取り組んだ結果としての優勝はこれからのセミナー講師という可能性を見つけるきっかけとなる。

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また、このあたりから、コーチとしての立場を自分として今後どうやって行くかということで悩み始めるが、企業内でのコーチングでの結果が少しずつ見え始める。物事の変化と時間の関係に気づき始めた頃。
 
◆終焉そして再始動

まったくのゼロから立ち上げ、4年半で1400名以上の参加者を集め関西でも有数のコミュニティとなり、自分を成長させてくれたCFG神戸を2008年夏に自らの意思で完了とする。ファイナルにはそれまで一緒にやってきてくれたスタッフ、参加者にかこまれサプライズの卒業式までやっていただき感謝と涙でいっぱいの時間となった。
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次のステージへと進む決意をする。これまでのさまざまな経験をもとにコーチング、コミュニケーションの分野に今まで異常に力をいれようと決意し、再始動に踏み切り現在にいたる。



・・・こんな私ですがよろしくお願いします。

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